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ネットで復活「弘法倶楽部」

弘法大師伝説をたずねて

関東の高野山から謎の巨石群、そして神秘の袈裟丸山へ(前編)

「関東の高野山」への旅立ち

都内と北関東を結ぶビジネス特急「りょうもう号」で、今回の最初目的地足利へ出発。

東京の下町を代表する街といえば、何を差し置いても「浅草」といえるだろう。この浅草をターミナルとする大手私鉄が東武鉄道。ここから日光方面へ豪華列車で旅した方も多いのではと思われるが、今回の旅は、浅草始発ではあるものの、本線の伊勢崎線を北上する特急「りょうもう号」に乗車する。都内と北関東を結ぶビジネス特急なので、日光や鬼怒川方面のスペーシアと比べると、豪華さがすっかり消え、質素な感じもしなくもないものの、快適さはまずまずといったところ。

都内近郊に広がる宅地化の波に引きずられるように電車は走る。やがてのどかな田園風景が少しずつ現れ、車窓の風景にも見飽きた頃、東京都、埼玉県、群馬県と進んできた電車は、方向を栃木県に向けた。降車は足利市駅。

足利市といえば、室町幕府の足利氏ゆかりの鑁阿寺や日本で最初の総合大学といわれた足利学校などが有名だが、今回の目的地は市街地から離れた山里になる。
最初の目的地は行道山浄因寺で、別名を「関東の高野山」という。現在は関東四霊場の一つに数えられる臨済宗の古刹である。

創建は八世紀前半(和銅七年)、奈良時代の名僧・行基が開き、弘法大師が第二世といわれている。特徴としては、天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗の四宗兼学の道場であったという点。後に法徳禅師により禅寺とし、室町時代には学問の道場となった。大勢の修行僧がここに集結したようである。
十七世紀前半(元和九年)には、雷火により堂塔の焼失という悲劇があったものの、江戸幕府から寺領二十石の朱印をうけ寺勢を盛り返した。
東武線の足利市駅からは市生活路線バスやまなみ号利用で、行道山停留所下車。但しこのバス路線、一日に四本しかないので注意が必要。距離的には八キロ弱といったところで、タクシーだと二千円は超える程度であろう。

石仏がなければ山城の跡とさえ思えてくる百六十五段あるという石段。

バスは浄因寺の駐車場に到着し、いよいよ関東の高野山に入山する。

駐車場の先から石段が始まり、老杉が視界を遮るほどに鬱蒼と茂っている。静寂の中、三百六十五段あるという石段を登り始める。石段の周囲には、露出した岩肌や山肌を借景として風雪に耐えてきた石仏が、様々な表情で見守ってくれていた。境内には苔むした石仏が三万三千体あるらしい。参道の石段は斜面を縫うようにして徐々に標高を上げていった。歴史を感じさせる石垣などを眼にすると、石仏がなければ山城の跡かとさえ思えてくる。僧侶の姿より戦国武将が石段を駆け上る姿の方が想像しやすい。

この日は浅草を発つときから快晴で、その時点ですでに気温は三十度を超えているような暑い日だった。山中とはいえ、関東平野が本格的な山岳地帯に入る手前という場所だけに、よほど標高が高くない限り涼しさを望むことはできない。この行道山は山頂でも標高四百四十二メートル程度だから、高原の清々しさとは無縁である。体中から汗が噴出し、吐く息まで熱を帯びているようだ。しかし不思議と苦痛と感じないのが、この浄因寺境内の雰囲気なのか、それとも非日常という空間なのか、そこまではわからない。

断崖の上には、葛飾北斎が諸国名橋奇覧で「足利行道山雲のかけ橋」として版画にした清心亭。

少しペースを落とし、ゆっくりとした足取りで最後の石段を登ると、山中にわずかに開けた平坦な地に到着する。本堂を背にすると、奇岩怪石に富んだ光景を眼にすることになる。南宗画さながらの景勝地だ。閑静な境内は、切り立った断崖に遮られ、その断崖の上に清心亭が建っている。かつて葛飾北斎が諸国名橋奇覧で「足利行道山雲のかけ橋」として版画にした場所である。

ここまで登ってきた疲労感が、岩壁そそり立つ山中から木々の間を通り抜け、あまりに青い空へ向かって放出され、同時に広く拡散されていくようだ。
本堂の裏手からは「関東ふれあいの道」のハイキングコースとなっている。行道山から石尊山、大岩毘沙門天、両崖山、織姫神社へと続く、所要時間約三時間の低山コースである。

「寝釈迦」という約50センチほどの小さな石像。その姿は、とても可愛らしい。

時間があったらそんなハイキングもいいかなと思いつつ、途中まで歩いてみることにする。もちろん歩くといってもほとんど登山で、今までの参道の石段より幾分険しくなった気がする。さらに汗が出てくる。タオルで何度も汗を拭い、急な斜面を登りきると、突然岩の壁に阻まれる。複雑な岩肌に足をかけ、何とか登りきる。息が乱れ、一瞬眩暈がするような感覚になるが、岩肌に点在する石仏がやさしく看護してくれる。視界も開けた。岩盤に照り返す日差しが、厳粛な石仏たちを、さらには緑に覆われた山全体を輝かせている。眼下には浄因寺の麓の集落が見える。市街地と反対方向のせいか、のどかな山村の風景だ。

この岩場の上で、石仏たちに囲まれ、穏やかに横たわっているのが「寝釈迦」という小さな石像だ。約50センチほどで、語弊を承知で表現すれば「かわいい」というのが正直な感想だった。


伝説に彩られた巨石群

ここから再び浄因寺に戻り、旅を続けることとにする。次の目的地は行道山浄因寺からさらに山奥へ入った場所。さすがにここからバスを待ってというのは辛いので、タクシーを呼んで利用することにした。十五分程度で到着する。
足利市の北部、名草という場所に昭和十四年に国の天然記念物に指定された巨石群がある。奇岩、巨石が多くあり、巨石群の中に厳島神社がある。もともとは名草弁財天として祀られていた場所で、明治の新仏分離令により改称している
が、今でも地元の人には「名草の弁天様」と慕われている。

「名草の弁天様」の入り口に建つ鳥居。

ここでの伝説は、弘法大師が天女のお告げにより江ノ島(神奈川県)で堂を建て修行していたということから始まる。護摩を焚き、その灰で弁天像を三対つくり、それぞれ三箇所に安置したそうだ。その場所は江ノ島、琵琶湖の武生島、そして足利の大勝寺。
江ノ島の逸話については別で紹介するとして、いつしか足利の弁天像が行方不明となってしまった。弘法大師は自らその探索に赴くことにした。この地に入ると、とても香りのよい風が吹いてきた。香りのもとへと足を向け、そのもとが草であることに気付く。これは名草(めいそう)だということで、地名の由来になったという。
さらに山中をさまようと、突如現れたのが白蛇だった。弘法大師は弁天様の使いに違いないと思い、白蛇の導き通り後を追っていった。すると巨大な岩の前に出た。白蛇は岩の穴に入り、出てこなくなってしまう。弘法大師はこの地に霊示を感じ、この場所こそ弁天様を祀るにふさわしいとして、経文を唱えた。水源の守りに弁財天を勧請し、祠が建てられることになった。
神社はその岩に建ち、江戸時代に現在の場所に再建された。

科学的に見ると、大昔、この周辺は水成岩からできていて、ここへ地下からマグマが盛り上がり、約十万年の歳月を経て花崗岩になったらしい。さらに粗粒花崗岩が方状節理に沿って玉葱状に割れ、水に洗われ、風化することにより、球状に残った部分が折り重なったことにより、現在の巨石群ができあがったようである。
天然記念物に指定されただけあって、貴重なものであるということが、よくわかる。
ここも駐車場から歩いていくことになる。大きな朱塗りの鳥居を越え、なだらかな坂道が前方に開けてくる。途中までは舗装されているので歩きやすく、周囲の杉木立も手入れが行き届いてる。かなり快適な道だといえるだろう。途中左側にさきほどまでいた「行道山へのハイキングコース」入口がある。
参道はやがて短い石段になった。ここに石で出来た鳥居がある。斜面に沿って登っていくと、上方に巨石が少しずつ見えてくる。弘法大師が白蛇に導かれながら、この巨石の間を通り抜けたというのも、何だか当然のような気がするから不思議だ。

巨石群の中でも一際目立つ「弁慶の手割石」。巨大なおむすび型の岩が真っ二つに割れているのは圧巻。

話には聞いていても、実際に眼にしてみると、印象が異なることはよくある。この巨石群も、突然現れてきた光景はそうでもないのだが、その場に立ってみると、異質な文明世界に入り込んだような気になり、事前の情報が一気に吹き飛んだ。「謎の巨石文明」とでも表現すればいいのだろうか、イギリスのストーンヘンジ、マルタ島のジュガンティア遺跡等々とはまったく異質ではあるものの、自然が創出した空間というより、太古の人間の神秘に満ちた信仰があるように思えてくる。これが太陽巨石信仰と直結することなく、弘法大師伝説が残るということに、お大師様の偉大さがわかるような気がする。
そんな巨石群の中で、一際目立つのが「弁慶の手割石」。

おむすび型の巨大な岩が真っ二つに割れているのは圧巻だ。また本殿を見上げる位置にあるのが、「胎内くぐり」。高さは10メートルを越えるだろう。岩に洞窟のような穴があり、案内板には潜り抜けると安産になると書かれている。

本殿は断崖絶壁の不安定な岩の上に建っている。とても小さな社殿だが、この前に立つと、日常生活の苦悩も試練もいつの間にか消え失せ、瑣末なことでしかないと思えるだけの心の余裕が生まれてきた。この感覚を体験するためにここまで登ってきたのだとすれば、それはそれで何だか贅沢な気もしてくる。

巨大な石が重なり合う場所に小さな祠が乗っている奥の院。

本殿から「胎内くぐり」の頭上に到る橋を渡ると、奥にはまだまだ道が続いていた。奥の院へ向かう道である。沢に沿っていて、水の流れる音が心地よく、足取りが軽くなる。
この沢では、水底に金色に輝く砂地を眼にすることもできる。砂金のように見えるが、花崗岩に含まれる金色の雲母が水に流され、堆積しているのだそうだ。
奥の院には建物があるわけではない。巨大な石が重なり合う場所に小さな祠が乗っているだけだが、この周辺の巨石はかなりの迫力がある。
近くには「天然記念物名草村ノ巨石群」という石碑があり、簡素なトイレもある。大鳥居の先の林道を車で進むと、迂回してこの奥の院に出てくるようだ。


知る人ぞ知る「うどんの町」に滞在

静寂な名草巨石群から再び市街地へ戻ることにする。おなかは空いたものの、せっかくの足利訪問なので、タクシーで鑁阿寺の周辺だけは見て回ることにした。
大日如来を本尊とする真言宗の古刹で、正式には金剛山仁王院法華坊鑁阿寺という。足利義兼の開基当初は高野山、次に醍醐寺の末寺、そして長谷寺の直末と推移し、昭和二十六年に独立、真言宗大日派の本山となった。
すぐ隣の足利学校を通り過ぎ、今度は東武線ではなくJR両毛線足利駅から電車に乗る。目指すは神秘の山・袈裟丸山だが、その前に足利から三駅先の桐生で途中下車することにした。群馬県に入る。

桐生といえば、江戸時代以来、織物業を基幹産業として発展してきた「織物の町」というイメージが強いが、最近ではパチンコ製造が全国シェアの七十%を占めるという意外な面を持っている。
もう一つ、知る人ぞ知る「うどんの町」であることも忘れてはならない。
現在うどんといえば、弘法大師の郷里である香川県の「讃岐うどん」が最も有名だが、関東地方にもうどん文化が局所的に存在する。埼玉県の加須市や、伊香保温泉の水沢うどんなどが代表例だが、桐生市も負けず劣らずのうどんの町なのである。
火山灰によるミネラル豊富な土地、複雑な山岳地帯を原因とする雷雨、有機物を円滑に運ぶ「からっ風」などにより、良質な小麦粉が生産され、独自の食文化となって定着したようだ。
その味を試そうと、駅の南口に程近いお店に入ることにした。
平べったいうどんを一般的に「きしめん」といい、名古屋の名物となっているが、本来の一般的呼称は「ひもかわ」という。桐生では「きしめん」ではなく「ひもかわ」を出す店が、市内にたくさんあるらしい。
出されてきたひもかわは、幅が三センチを越すほどの太さで、まずびっくり。食べ辛そうに見えたが、口に入れてからのつるんとした食感は初めての体験。美味しいと感じる前に、心地よい感覚が口から喉に伝わり、幸せな気分にさせてくれる。何だか懐かしいような感じで、癖になる味のようだ。

桐生うどん会では「うどんラリー」というスタンプラリーもやっているので、地図を片手にチャレンジするのもお勧めかもしれない。少なくとも麺が好きな人であれば、一度は訪れる価値があるだろう。
ちなみに桐生へは、浅草から乗車した特急「りょうもう号」で一直線。足利市で下車せず、そのまま乗っていれば、渡良瀬川対岸の新桐生駅に到着する。
さて、袈裟丸山は本格的な登山になるので、今夜は桐生で一泊することにした。明日、わたらせ渓谷鉄道で足尾山地へと向かう。

桐生市そのものは観光地というわけではないので、観光ホテルよりビジネスホテルが主流になるが、旅情気分に浸れる宿もないわけではない。
ホテルきのこの森は、昭和四十九年の第九回国際食用きのこ会議を日本で開催するため、日本の三大発明の一つ、椎茸の人工栽培に成功したドクター・モリこと森喜作氏により建てられた。そのときの参加者が五百人、海外からは二十三カ国二百人余人だったという。ちなみに三大発明の残り二つは、御木本幸吉の真珠の養殖、和井内貞行の姫鱒の養殖である。
ここは山そのものが広大な敷地となっていて、きのこ狩りができたり、「きのこ楽市」で様々なイベントが行われたりする。また露天風呂は桐生の町を見下ろす位置にある。
桐生市の市街地から離れれば、赤城山麓の梨木温泉などもお勧めだろう。ここは明治十五年創業の一軒宿。桐生始発のわたらせ渓谷鉄道本宿駅から送迎バスで約十分の場所にある。ここでは名物のキジ料理と、坂上田村麻呂が発見したという、由緒ある温泉を堪能することになる。



※平成16年発刊の「弘法倶楽部」創刊号に掲載されていた記事を、そのままホームページ用に掲載しております。現在とは異なる箇所がございますが、掲載当時のまま再掲載しております。


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